買わなかった本こきおろし

  • 『天才はなぜ生まれるか』(正高信男)と『「できる人」はどこがちがうのか』(斎藤孝)ともにちくま新書
  • 最近ここに載せたものも含め、ここのところ出先で読もうとやたらに本を持ち歩いているのだが、おとといの朝は、本を入れた袋は重いがハンドバッグはいやに軽い(あとでバランスを取ろう)と思って家を出たら、なんと財布を入れ忘れていた。小銭入れのポケットの千円札(こういうときのために四つ折りにして入れてあったのを発見)で昼食はまかなう。五百円が残るが、夕方、フィルムセンターで映画を見ようにも(ちょうど五百円)そこまで行く電車賃がない。ドトールでアイスコーヒーとベーグルをとり、持参の本を読もうとするがいっこうに進まず。しかたがないので外に出、すぐ帰宅する気もしないので十円玉しかない状態でブックファーストに入る。『天才はなぜ生まれるか』、お金あったら買っていたかもしれない。ないので店内の椅子で読みはじめる。あっという間に読み終える。(手持ちの本、読み進まないのには理由があったと知る。)こんな長持ちしない本もない。買わないでほんとによかった。
  • 『天才は〜』、エジソンだのアインシュタインだのベルだのレオナルドだのを取り上げて、彼らは多かれ少なかれ脳に障害があったが、それにもかかわらず天才だったのではなく、障害があったからこそ天才だった、障害が彼らの天才の一部だったのだと説く。だが、たとえばエジソン。入ってすぐ小学校をやめさせられたエジソンのことを、母親が教師だったので家で勉強を教えてもらえたと日本で出版された過去の伝記が紹介しているが、実は母にそんなキャリアはなく捏造だと指摘しているあたりは面白い(ここらへんで最初読みたくなった)。しかし、読み終えてみればどうということはない内容。昔、金井美恵子が電球を発明したアメリカ人がなんで天才なんだ、と言っていたが、話はそれですんでしまう。
  • レオナルドについて、鏡文字で書いたのは人に読まれない用心だったなどという説明はおかしいと言い、脳の頭頂部の障害で、実際に文字が引っ繰り返るなど異常な見え方があったという導入部は、これまた興味をそそるものがある。しかし、レオナルドの、たとえば藝術的才能と障害とにどんな必然的なつながりがあったのか、肝心のそこがなってないのだ。代償としての創造力という考え方は妙に凡人の気をひくとみえる。
  • きわめつけの凡人、斎藤孝の本は全く買う気がないので(にもかかわらず読みはじめたのは、最初に開いたページに、たとえ数式がわからなくても文系の人間は自然言語の理解力にすぐれるため、理系の一般書を十分理解できるといった記述があったため)、次にこれにとりかかったが、さすがに『天才は〜』ほどの単純さはなく、その場で通読はあきらめる。しかし、最初に見つけたところ以上に冴えた箇所はなさそう。全部読まずに本の中身を頭に入れる方法みたいなことが書いてあるのには笑えた(こっちはまさしくそれを実践中)。

■当ブログ、本の分類が破綻している。とりあえず[新]を消した。