ピクニック、その他の短篇   金井美恵子

  • 未読の短篇が二三混じっているが大半はすでに読んでいる(たいていは単行本で出たときに入手している)、この小さな(新たに編まれた)桃いろの本を持ちあるいてどこかの喫茶店でそっとひらき、まるで金井美恵子という名をはじめて知ったかのように読んでみたいと思うのだが、まだ実現していない。金井美恵子を最初に見つけたのは女の書き手が若さを持てはやされてデビューすることなどありえなかった遠い昔の図書館で、『夢の時間』巻末の著者略歴(高崎女子高校卒)を見ながら《この人はまだ24歳なんだ》と思った覚えがあるから、こっちも十代だったことになる。(9/12)
  • いや、そうではなくて……やはり全部読んでいる。これはデジャ・ヴュではなくはっきりした記憶であり、マグサだかマグソだかの味がするコーヒーが出てくる七枚程度の短篇の評を書いたと作中人物が言う短篇とは金井自身の作であり、上野図書館(安藤某が改築してしまった)の地下で今はないHとコーヒーを飲んだとき、そのまずさに驚いて、金井美恵子はこのコーヒーを飲んであの描写(恋人が死にかけているのに上野駅から列車に乗れない男が博物館だか図書館だかに入って飲むのだ)を思いついたに違いない、と私は言ったものだ。(9/12)

学校帰りにたまたま誘いあい、土蔵のなかで隠れん坊をして遊んだ少年と少女の記憶が十数年ぶりにつき合わされる「木の箱」では、その古い土蔵のなかにおかれていた樫材の大きな舟箪笥に入ったか入らないかをめぐる両者の思い違いによって、《二つの別々に記憶されていた同一の記憶が再び出あった話》の作者が単一ではなくなってしまう。互いが互いの合わせ鏡となって、どちらが欠けても成立しないこの話は、記述者たる《わたし》がかつての少女であった女性に発表前の文章を見せてチェックさせるという手順を踏むことで、完全に《わたしたち》のものとなる。            

  • これはこの選集の選者にして解説者堀江敏幸の文章であるが、もしかして堀江は「《記述者》=かつての少年だった男性」と取っているのだろうか? 語り手が次々と交替する(わずか十四ページのあいだで)この物語のなかでこの二人は明らかに別人であり、それが、「合わせ鏡」では完結しない「私」の複数性をさらに押し進めていると思うのだが。(9/13)                                 *講談社文芸文庫(199812)1365円◆9/5(火)@銀座教文館