国を愛しても国家は愛するな

  • この本は二年前の刊行だが、「国家とは何か」という章は愛国心の話からはじまっている。実は、「二〇〇三年三月二〇日、中央教育審議会は、教育基本法を全面改正し、「国を愛する心」(愛国心)を盛り込むよう求める答申を文部科学大臣に提出した」のだ。国とは何か? 何らかの「体験すべき実体がありうるのだろうか」と著者は問う。

万葉集を詠唱し、国史を学び、漢字を使うのをやめたら愛国者だろうか。顔に入れ墨をして、一枚の布に穴を開け、首を通して身にまとったら純粋に日本的だろうか。/(中略)「国」や純粋に日本的なるものをもとめることは、たぶん逸脱的にならざるをえない。歴史を学ぶ限り、日本は人種的にも文化的にも異国のものを取り入れて豊かになってきた。狂信の上にではなく、事実の上に愛国心を築こうとするなら、その事実は気に留めておいたほうがいいだろう。(p.189)

  • 愛国心を、訳もわからず何かはっきりしないものを愛するカルト的心情にしないためには、愛の対象である「国」の概念を明らかに必要がある」と著者は述べ、「国家」と「国」を区別する。

「国家」は「国」よりもはるかに明確な概念である。さらに限定し、本書では「国家」を「統治機構」の意味でのみ用いよう。国民に対して権力作用を及ぼし、反対する者は力ずく[ママ]で強制的に従わせる仕組みが統治機構であり、その物理的実体は政治家と官僚(警察と軍隊もその一部)である。/このことを明確にしておくと、「愛国心」の危うさが見えてくるはずだ。(中略)/国を愛するというときに、漠然とイメージされる国とは、おそらく日本人の集団や、文化、伝統といったものだろう。それらに愛着をもつことは自然な傾向なのかもしれない。だが、こうしたものは現実に力を及ぼす組織的な実体をもっていない。/現実的な力をもっているのは、あまり愛の対象としては意識されない統治機構である。注意しなければ、人・文化・伝統への自然な[引用者註:私ならこの「自然な」にはカッコをつけるだろう]愛は、統治機構への忠誠心として都合よく利用されてしまう。(pp.190-191)