カミュ『よそもの』きみの友だち 野崎 歓

みすず書房 (200702)1575円◆3/17(金)@改造社書店
 カミュの『異邦人』なら高校生のとき新潮文庫の窪田啓作訳で読み、大学の仏文講読で原書に触れるというありきたりの経過をたどったが、度しがたい怠け者の学生だったので、他の講義同様、その講義にもめったに出て行くことがなかった。思えば勿体ないことで、猫に小判とはこのことである。しかも猫は、まれに出て行ったときその先生の言葉になにがしか蒙を啓かれた思いがしたのに、ならば次の時間からは必ず出て行って聞きもらさないようにしようとも思わず、午前中のその講義が終るくらいの時刻にようやく寝床から起き上がってのびをするようなありさまだった。

 そんなある日、大教室でやっていたその講義にまたふらっと出てみると、ムルソーがマリーを部屋に連れてきてはじめて寝た翌朝、青い縞かなにかの自分のシャツだかガウンだか(今、本が手元にない)を着たマリーが朝食の仕度をしようとしているのを見て「私はまた彼女に欲望を感じた」とムルソーは語るのだが、「ここでムルソーは欲望を実行したんですね」と先生は静かに言った。寝子のねむけは一瞬にして吹き飛んだ。今まで何を読んでいたんだ。「私はまた彼女に欲望を感じた。」この次の行は、「しばらくしてマリーは、自分を愛しているかとたずねた。」である。よくわからないが愛していないと思うとムルソーは答える。なんでマリーはここでこんなことを尋ねるのか。女はとかく愛を確かめたがるからなんかではない。「ここでムルソーは欲望を実行したんですね」これが大人の読み方か。とても高校生[コドモ]などに読めるものではなかったと悟った。他の部分もどんなに読みそこなっていることか。ならばもう一度最初から精読してみたかというと、今に至るまで怠け者の猫はそうしていなかった。

 先生の読みは常識でオトナはそう読んでいるのだと、そのとき以来信じていた。しかし、本書を読んだらそうでもないらしく、オトナでも行間を読めるとは限らないのだと知って安心した。(ましてこれは高校生でもわかるがウリのシリーズだ。)養老院から電報をもらってままんがいつ死んだのかは知らないが明日埋葬なのは知っているムルソーが上司に休暇を願い出て、「私のせいではないんです」と言うのを、本書ではうそぶいているように取っているが、先生は「これは本当は気の弱い男なんですね」と言った。やっぱりこの方がしっくりくる。あの講義を思い出すと、小説というものの読みがたさとそれをつい忘れて理解しえたと思い上がる自分への忸怩たる思いがあらためて胸に押し寄せる。先生の名は中村光夫という。