すべては脳からはじまる 茂木健一郎

フランスの文学者、アルベルト・カミュに、『シーシュポスの神話』という寓話がある。一人の男が神から、坂道で岩を持ち上げるという罰を受ける。(中略)/カミュの記した神話は、私たち人間にとっての真実性を内包をするからこそ、印象的である。 どんなに苦しい思いをしていても、それが自分の人生の宿命であり、引き受けるしかないと思い詰める。(p.107)

 著者はどこで『シーシュポスの神話』を読んだのだろう? カミュに同名の著作はあるが「寓話」はない。翻訳は少なくとも二種類あるが、フランス文学者が「アルベルト・カミュ」と表記することはありえない――ウェブにならいくらでも例があるが。著者はひょっとしてインターネットででも梗概を見つけたのだろうか? そう疑ってしまうのは、『シーシュポスの神話』には確かにシーシュポスのエピソードも出てくるが、大半は自殺についての考察だったと記憶する(それに「苦しい思い」よりもむしろ生の喜びについて叙情的なトーンで語られている)のに、引用した部分で著者が「尊厳死」や「安楽死」をテーマにしながらそうした内容についての言及がないのがいかにも不自然だからだ。上のような記述では、まるでカミュは前世の因縁でこういう身分に生まれたのだからとあきらめる人のようではないか。ついでに言うと、「思い詰める」という語の用法も変だ。(あと、「坂道で岩を持ち上げ」てどうすんのん?)

カミュフロイトといった、人類第一級の知性でも扱いかねた死というエニグマ。その不良設定問題を、私たちは生き遂げるしかない。(p.109)

「人類第一級の知性」よくこういう粗雑な言葉が使えるなあ。「生き遂げる」やれやれ。108ページには「至上命題」というありがちな誤用がある。

伊藤若冲が人気を集めている背景には、何事にしてもコミュニケーション過多で、わかりやすさや最大公約数だけが求められがちな現代で、人々の中に“清涼剤”を求める気持ちがあるのだろう。(p.,91)

 理解できないものにはせめて口を出さないという慎みがほしい。おまけにタイトルが《京の絵師・若冲の「こだわりパワー」》ときた。こだわってああいう絵が書けるものか。

見せかけだけのものは、いつか化けの皮がはがれて、淘汰される。外見をとりつくろうことはやめて、内面を充実させることを心がけるべきである。(p.173)

 そのとおり、と言いたくなるが、それよりまず「外見」たる「文章」を「とりつくろ」わなくてはどうにもならないだろう。この「外見」と「内面」の二分法は恣意的なものに過ぎず、それは「見える才能と見えない才能」(p.70)のあいだに引かれるいい加減な線についても同様だ。結局、かぎりなく思考の詰めが甘いということなのだが……蓮實重彦が、昔、見える制度と見えない制度という分類に関して中村雄二郎を批判していたことを思い出した。(12/15)

中公新書ラクレ (200612)698円◆12/14(木)@近藤書店朝日店